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Snow Lights Films

D76は存在意義が失われたのか

 



何年か前にこのサイトで書かれていた「D76は存在意義の失われた現像液だ」という写真家の方のコラムについて、まあ確かに理解はできるけれど、当時からその意見はすべて飲み込めないと思った。アンセルアダムスの写真は美しいとは思うけれど銀塩モノクロ写真を撮る人が全員そこを目指しているわけではなく、ボク自身もファインプリントが最終着地点だとは考えていなかったからである。


あくまで個人の考え方だけれど、銀塩(大判を除く)でデジタル写真を否定するような美しい写真を作ろうなどとは10年前から考えていない。その昔から写真は美しさだけが本質ではないはずである。写真は物質の二次元への完全再現が最終目的ではなく、そこにある事物を撮り手がどう見たかという表現だと考える。よって粒が立ち多少のアレや現像ミスがあろうとも生々しい息づかいのある写真にも惹かれるのである。今で言うエモさだろうか。美しい写真へのアンチテーゼはプロヴォーク時代から細く続いているけれど、その中にも美意識ははっきりと見ることができるし、現代写真では「見ずらい」「不快」も表現として存在する。

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