Shovelog

Snow Lights Films

コメディアン

 

 

すっかり春らしくなった。4号線の通行止めは今シーズンは一回だけで済んだようである。

さて、近所にあった魚民がコロナ騒動で撤退したあと長らく空き店舗となっていた所へ先日コメダ珈琲がオープンした。愛知県に居た頃は入ることもなかったコメダだけれど、小倉トースト食べたさと近所ということもあって入ってみた。魚民時代は全個室となっていたフロアは間仕切りが取り払われかなり広い空間であったことを確認する。見渡してみれば驚いたことにそこにいる人の半分以上が本やノート、PC、タブレットを広げ勉強や仕事をしていてドトールやスタバとは違う雰囲気を出していた。ボクの対面の席に座っていた高校生らしき女子はBeatsのヘッドホンをしたまま黙々とノートに書き込みをしており、おそらく1年後の受験に向けてだろうか、ボクが小倉トースト食い終わりとコーヒーを飲み干すまでその集中力は途切れることがなかった。家よりもここの方が集中できるのだろうか、テーブルの上には教科書の他に小説が3冊積んであった。ボクは出先だとどうも落ち着かなくて集中できないので彼らがちょっとうらやましくカッコよく見えたりした。彼らはコメディアンと呼ばれているらしい。

 

リセットの決断

 

 

一昨日は久しぶりに手描きイラストの仕事をした。Appleペンシルは持っているけれどやっぱり紙と鉛筆がいい。机の上は消しゴムのカスだらけだけれど、鳥山明鴨川つばめで育ったボクには2B鉛筆が一番いい。ペン入れをした後は結局フォトショで修正してイラレでデータ化するというデジタル作業になってしまうけれど、まあ最近のボクのフィルム写真もデジベタばかりだから似たような状況である。

そんなPC絶対の業務の中、メインのMacが絶不調に。なんとか入稿データまでは作ったけれど、もはや限界だった。不調の原因は今年に入ってMacのOSをSonomaにしてからである。レインボーカーソルは頻発し、特にAdobe系はフリーズしてばかり。どうもIntel MacにこのOSは無理があるような気がしてならない。というわけでとうとう苛々は限界に達しMacを完全に初期化してしまった。こうなったらもはやクソ重くなったメールも復元せずに新たな人生をやり直すことに決めたリセット症候群。まるでSNSで突然居なくなる人みたいだなと思ったけれど、何しろ25年分の業務メールである、すべて連絡先を残しているわけもなく不安が残るけれどここは思い切ることに決めた。そういえば来年は会社設立30年となる。初代iMac時代からの重荷を捨てて来週からはコンピュウタアの中では新しい人生が始まる。

 

神経質な方はご遠慮ください

 

 

 


個人売買で当たり前の文句だけれど細かい事言うなという意味であり病気の人お断りではない。しかし一体自覚している人は居るのだろうかと思いきや先日、旧車の集まりで「私は神経質なので」という会話を聞いた。旧車の場合はだいたい車を見ればなんとなくわかるような気がする。ただ、神経質とキレイ好きとは違うし、完璧主義と潔癖症と神経質もまた異なり、気にする所は外観なのか動的な部分なのか音なのか匂いなのか人それぞれであろうけれど、車に限らずおそらくそれは生き方すべてであり、あまりにかくあるべしが強い人には近づきたくないスボラな自分である。

 

解体と再生

 

 

 

ちょうど50年ぶりに同じ会場で同じ展示という近代美術館で展示された中平卓馬の展示を見る。中平さんと言えばプロヴォーク期のいわゆるエモイ・カッコイイ系の写真が人気だったりするけれど、ボクは1971年のパリ、ビエンナーレで撮り続けた写真が好きである。自意識を捨てようとの試みとそれ以前の中平さんが交錯しているやや不安定なバランスが好きだったりする。以前、中平さんの事を写真の神様だと渡部さんが言っていたけれど、中平さんが意識障害から復帰した後の、完全に自意識の消えたピュアな写真を見るといつもそれを思い出して、本当に写真の神様になってしまったのだと思いつつ、近年発表された中平さんの映像ドキュメント「カメラになった男」というタイトルもまさに言い得て妙だなあとつくづく。このピュアな写真こそ中平卓馬の深層意識であり、ボク自身も常にはここを探している。


自意識を解体すること、それをすすんで引き受けること、それが私の考えること、その自意識の解体と再生を自らすすんで引き受けること、それが写真家として止む事なく私が考え、引き受けつづけることである中平卓馬


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